西山 博万
(HIROKAZU NISHIYAMA)
BENBUは Benkyo Club という部でもありますので、代表は「部長」ということになります。しかし、いまだかつて口頭で「部長」と呼ばれたことがありません(笑)。
学校と同じように「先生」と呼ばれることがほとんどですが、まあ、それでいいです。たまに「塾長」と呼ばれることもありますが、1人なので「長」をつけるのもなんだかなということで「塾」と呼んでもらうように伝えています。
生まれは神戸です。いわゆる関西人でお笑いが大好きですが、別に漫才ができるわけではありません。千鳥やサンドウィッチマンが好きです。
関西弁というのは実は存在せず、大阪弁(これも多種あり)、神戸弁、京都弁に大きく分かれます。わたしの場合、もともと神戸弁だったはずなのですが、大学時代に英語・ドイツ語を含め、あまりにごちゃ混ぜの言語の中にいて、とにかくたくさん話したために、何弁なのか原型をとどめていません。
学生時代は勉強、研究、アルバイトのほか、留学生とつきあったり、浄土真宗の団体に入ってお寺の本堂でお経を諳んじたり、プロテスタント系の教会の日曜学校の先生をしてギターを弾いたり聖歌を歌ったりたまに聖書に基づいて説教をしたりもしました。外から見ればいつも何かをしている最中のすごく怪しい人でしたが、宗教には一切染まっていませんし、完全に無宗教です。早い段階でスタッフ側になって裏側を見、所詮は人間の集まりにすぎないなとわかったので、感化されたり自分を失ったりすることはありませんでした。大学の研究者も含めて、いろんな人がどういうことを思って日々過ごしているのかに興味が湧き、一緒に過ごすことで体感しようとしていました。得られたものは莫大で何人分も生きることができたような気がしています。人の気持ち、心に興味がありますし、日々どう感じどう考えて過ごしているのか、将来のことにどう向き合おうとしているのかに強い関心があります。人間ってなんだ?という好奇心です。
お酒は飲みません。以前は1晩にワインを1.8Lとブランデーをロックの2ショットで3杯といった生活をしていましたが、その時間をほかに使いたくなったので飲むことをきっぱりやめました。ワインは飲んでいると酸化防止剤が塩っぱく感じるようになるので、酸化防止剤無添加の赤ワイン(1.8L)が好きでしたが、なければないで、別に困らないのが不思議な感じでした。お酒を飲みたい衝動もありません。
子どもは娘が一人。土浦一高で副教科を含めほぼオール5で通し東大理Ⅱに現役合格したあと、理学部の修士課程を経て就職しています。
娘が3、4歳の頃、ホットケーキをあとどれだけ欲しいかを聞くときに、実際に1枚を切って2分の1とか4分の1といった分数で聞いていました。あるとき、8分の1、4分の1、2分の1、1分の1、、、、「半分」分の1!ということに気づき、これが2枚を表すことを理解してしまいました。それからしばらくは、「半分」分の1が流行語になりました。この経験のあと、人間が「わかる」ということがいったいどういうことなのか、ずっと興味を持ち続けています。
学歴・職歴(略歴)
出身大学は、京都大学です。農学部農芸化学科[当時のバイオテクノロジーの中心でした]を卒業後、大学院の修士課程を宇治市にある化学研究所の微生物化学研究室で過ごし、製薬・食品企業に研究員として就職しました。企業内ではとても大切にしてもらい、長く研究職を勤めたあと研究企画部に移動し、自分で出した企画をきっかけに学術部(研究部へのスムーズな情報提供・交流)、知財部(防衛特許大量出願・パテントマップ作成)、法務部(予防法務徹底)といろいろな経験をさせてもらい、部下を抱える経験もさせてもらいました。社長プレゼンは誰もが怖がるところ、プレゼンの日程を待たず出張帰りに押しかけ社長室で下着姿になって着替えている最中の社長にプレゼンするなど、ほかではとても味わえないアドレナリン大放出の経験を重ねさせていただけました。社長や取締役の方々の本音・弱音も聞かせていただけて、やはり人間なんだと納得しました。いい時間を過ごさせていただきました。とても感謝しています。
ただ、ある取締役の「君も頭を垂れる仲間になったか」「40を過ぎると冒険はできないなあ」にだけは内心で激しく反発しました。そんな人生は求めていないと自覚できました。
その後、妻の会社の合併を機につくば市に転居しイクメン専業のあと、社会人対象の大手予備校で行政書士・日商簿記の講師をしました。またスマホゲームアプリのプログラミング教室を都内で行っていました。受講料を半日で4万円に設定しても毎回20~30人が集まってくれました。ゲーム会社が会議室を無料で貸し出してくれたのもありがたかったです。
金銭感覚がおかしくなりそうになったので地道な仕事をしようと思い直し、小中学生を対象とした塾の講師になりました。2社経験し、1つ目は校舎数が多い中学生を主な対象とする塾で、つくば市に進出する1校目でした。何もない教室の壁に黒板を取り付けるところからかかわり、小学生用と思われる椅子が一体化した机を運び入れ、チラシ・風船配りなどもして軌道に乗るところまで勤めました。宣伝ばかりに力が入っていたので生徒も自分も成長しないと感じ、また本部まで車で片道2時間の月1回会議が馬鹿馬鹿しくオーナーがまったく尊敬できない人だったのでやめました。2つ目は逆に校舎が1つしかない塾でつくば市に昔からある塾に入りました。昔は塾が少なかったために元々優秀な生徒も集まっていて県立高校受験で実績を出すのにそう苦労はなかったようです。それが老舗の中身なのかも知れません。なぜか居続けるのは良くないと示唆する出来事が次々起こるようになってきたので、次はどうしようという具体的なプランが確定しないままにやめました。かなり自分を抑えていたので、あまり成長はできなかった気がします。
そのままではヒマを持て余してしまうので、主に高校生を対象とした家庭教師を始めました。口コミや塾で知り合った方が多いです。大手家庭教師派遣会社にも登録し(週1回2時間で月10万円クラス)、医学部志望の生徒の指導をしていました。趣味的に、大手通信添削会社の添削もこなしました(東大京大コース)。添削者名に西山とあれば、ほぼまちがいなくわたしです。
さらに重ねて、北条・小田・山口地域の新聞配達のアルバイトを2か月、深夜のパン工場(緑ヶ原)のアルバイトを9か月兼務しました。いずれもベテランと同じ程度にこなせるようになったのでやめました。
出発前に配達順に新聞を重ねていきます。
少しでも雨の心配があれば、1部ずつ袋に入れます(手作業)
バイク(スーパーカブ)の荷台に縛り付けて出発しますが、全部は載せられないので半分だけ積んで、残りは中継地点に車で運んでもらいます。
山道が多かったので、こけて新聞をまき散らすこともありました。そうなると順番が狂ってしまうので、一部ずつ確認しながらの配達になります。
新聞配達の人が、どうやって配達先を覚えているのか不思議に思っていました。
これが答えでした。実際に配達する人が自分で目印になるようなものを書き込み、覚えるまではそれをポケットに入れて確認しながら配達していきます。購読の中止や新規が頻繁にあるので、その都度書き込んでいきます。写真は渡された元の冊子を元に自作したものです。
パン工場で賞味期限シールの貼付に使っていたラベラーです。
やめる記念にいただいたもので、壊れて廃棄処分になったものです。1晩で5000個以上は貼っていました。貼り忘れると翌日にはほぼ間違いなく配送先からクレームがくるので、真剣にしかし時間がないのでテキパキとこなしていました。真夜中から明け方にかけてこんなに集中して作業するなんて、異常な世界です。人件費を抑えるためにコンピュータ制御の機械がいったん導入されましたが、パンの包装が立体的に複雑で変形するのでうまくいかず、手作業に戻って導入費用の1000万円が損失となりました。
この2つを選んだのは、2大最悪ブラックバイトと呼ばれていたものを身をもって体験しておきたかったからです。実際にまっくろでした。ただ、パン工場ではアルバイトの人たちが好きすぎて離れたくなくて(経営側は顔も見たくない)、また、生き方がめちゃくちゃでおもしろすぎて、半年経ってやめようとしたのを撤回し延ばしてしまいました。あの人たちに今でも会いたいですが、会わない方がいいのかも知れません。ブラックバイトをした主な目的は、睡眠時間が取れないハードな生活をしながらブラック現場でストレスを最大化して、自分の心身の限界を見極めること(弱い脆いことがわかれば開業をあきらめるということ)です。家庭教師先で23時頃になり帰宅して0時過ぎに新聞配達に出発するときには、睡眠時間が30分で、さすがにまずいなと思いましたが乗り切りました。副次的な目的としては、学歴がない人の社会での扱われ方を経験しておくことです。以前から肌身で感じておきたかったことですし塾を創るにあたって必要だと考えました。新聞配達に向かう途中でパトカーに止められ職質されたときに、「これからバイトです」と言った瞬間の、警察官のすべてを察したような表情は忘れられません。思いは言葉にしなくても一瞬で伝わります。情けなさ、みじめさの極みでしたが、この経験が欲しかったのでした。おかげで学歴に有益な面があることを説得力をもって伝えることができます。塾の開業に失敗したらここに戻ってくることになると腹を括るためでもありました。
妬んでくる人もたまにいますが
(そもそも高級車に乗っているわけでも贅沢な暮らしをしているわけでもないので妬まれる理由が不明ではあります)、
じゃあブラックバイトに耐えてみろ、自己資金でこれだけリスクを背負ってやってみろ、週休2日とか有休とか甘えてなくて365日ガッツリ働いてみろ、何か勉強してみろ、と言いたいです。行動もせず覚悟もなく結果だけ見て妬んでいると人生が悪化していくだけです。他人に向けた悪い想念はすべてご自身がかぶることになります。家庭不和が悪化したり病気がひどくなったりするだけです。私には一切届きません。
妬む心が出てくるのは、自分にもできるという思いがあるからです。そう思われるなら、ぜひやっていただきたいです。始める勇気は本人まかせですが、その後はお手伝いできます。実際にやってみられてどのくらい大変なのか体験されればいいと思います。その体験が成長させてくれます。生徒を何十人も抱えていれば毎日が修羅場のようなものです。生徒ひとりひとりのことを考えていると眠れなくもなります。それをいやがらず、あえて引き受けることで、生徒も自分も成長していくことができるのです。全力を出してようやく乗り切れる日々が際限なく連続していく世界ですが、それを妬むなら、ぜひ一緒にやりましょう。他人を見てばかりでご自身のことを見ていない状態は、まずいです。エネルギーが漏れっぱなしで、何もできないままに不平と不満の中で、さらにそれを増強する結果を引き寄せながら人生を終えることになります。
勤めている会社をやめなくても、所属したままでも自主的で自立した生き方はできます。他人を妬んでいるヒマはありません。力を分散させず自分のしたいこと、すべきことに集中させていけば、会社の中で充実していきます。会社から大切にされるようになります。どうせやる仕事であるならば、最大限それを楽しみたいですし、それを成長の糧にしたいです。なぜなら、その仕事に使っている時間は命の時間であり、命と引き換えにしているからです。
座右の銘
特に決まったものはありませんが、「鶏口牛後」を口にすることが多いです。「大きな集団や組織の末端にいるより、小さくてもよいから長となって重んじられるほうがよい」ということです。
「大きな集団の末端にいる」というのは、自分の能力を発揮できていない状態です。自分の全力を出すことなく、まわりに気遣ってばかりで時間が過ぎます。安定を求め過ぎたために何かもの足らない気分、自分の限界に挑戦せず自分を使い切っていないために不完全燃焼の、もやもやした気分を抱えたまま、それをごまかして過ごしている状態を指していると考えます。
「長となって重んじられる」というのは、単に名誉欲や物欲が満たされるという付随的なことに重点はなく、自分の能力を発揮して日々充実して過ごしている状態を指していると考えます。リスクを取って生きている実感を味わう生き方につながります。
「鶏口」と「牛後」のどっちがいいか、と聞かれたら、わたしは迷わず「鶏口」を選びます。
このHPを一気に作るきっかけになった、ドラゴン桜の桜木先生名言も大好きです。その1つをブログにあげましたが、ここでも引用します。
負けるってのはなぁ、
だまされるっていう意味だ。
お前らこのままだと、
一生だまされつづけるぞ!
中略
お前らみたいに頭を使わず
面倒くさがってばかりいる
ヤツらは一生だまされ
高い金払わされ続ける
賢いヤツはだまされずに
得して勝つ
バカはだまされて
損して負け続ける
これが今の世の中の仕組みだ
だからお前ら、
だまされたくなかったら、
損して負けたくなかったら、
お前ら勉強しろっ!
ほかには、「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。」というニーチェ(権力への意志)の言葉もよく使います。すべては解釈にすぎないんだと思えれば、解釈を変えることで自分が感じている世界を変えることまでできてしまいます。
事実は事実として変わりませんが、その解釈は自由にできるのです。ネガティブな人はいつも自分を否定する方向に解釈しますが、自分で自分をいじめているだけの、損な生き方です。
「やるべき勉強課題が多い」という事実があるときに、
「とても自分にはこなせない」
「これができる人はすごい」
「それに比べて私は全然だめだ」
「やってもやっても全然進まないのでやる気が起きない」
と解釈することもできます。
しかし、
「こういう状況は自分一人ではないはず
ここで耐えて努力を続ければ、
上位に浮かび上がってくるはずだ」
「じゃあ、やれるだけやってみよう」
「とりあえず今から1時間でここまでやってみよう」
と解釈することもできます。
「できることをやっていけば、
案外短期間で済むかも知れない」
「悩んでいても進まないから、
とにかく始めよう!」
「課題が多いのは前進するチャンスだ」
「時間の使い方も上達するはず!」
と解釈することもできるのです。
「テストで点が取れなかった」という事実から「自分はダメなヤツだ」と考えるのは解釈の1つにすぎず、事実ではないのです。
「今回のテストで弱点が明確になってよかった。そこを重点的に復習すればいいからラッキー♪」という解釈もできるのです。
「今回は点が取れなかったが、ここから頑張って伸びたら、合格体験記で自慢できる。いいネタを得た」と解釈してもよいでしょう。
「テストの結果が悪かった」という事実から「だから志望校はとてもムリだ」「自分はこの科目は苦手だ」という解釈を導くことは可能ですが、その解釈は『事実』ではないことに気づくことが重要です。
「今回の問題をマスターすれば一気に成績が伸びるから大チャンス!」と解釈してよいのです。
どういう解釈を【選択】するかは、自分自身で決めることができ、自分で【選択】した解釈次第でその後のやる気も伸びも変わるのです。
事実は何なのかを冷静に見極めようとすることが大切ですし、事実に対し反射的に生まれてしまう解釈およびその解釈に伴う感情を、事実そのものとごちゃ混ぜにせず別物だと意識しようとすることも大切です。感情に流されず事実と解釈とを切り分け、事実だけに基づいて対応・対策を考えることができれば、マイナスの事実であってもプラスに活用する可能性を見いだすことができると思います。本当は事実にプラスもマイナスもありません。プラスマイナスがあるのは解釈です。起こった事実と、その解釈を、切り離すことができるようになれば、一つの解釈に条件反射的に盲従することなく、より良い結果につながる解釈を自分で選択できるようになります。
ニーチェのように、事実すら存在しないと言い切れるようになれれば、精神の自由度が一気に増し、自分を貶める自分が存在しなくなって、とても生きやすくなるでしょう。
トーマス・エジソンの言葉に、「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。」「私たちの最大の弱点は諦めることにある。成功するのに最も確実な方法は、常にもう一回だけ試してみることだ。」があります。エジソンは発明の天才であっただけでなく、解釈の天才でもあったわけです。
物理では可視光線は電磁波のごくごく一部に過ぎないことを学びますが、「見える」というのは、物体が吸収せずに反射した一部の可視光線を目で捉えて脳で認識し蓄積したパターンにあてはめた結果にすぎません。見えた物体は物体そのものではなくて人の解釈の産物なのです。物体そのものを把握したわけではなく、色であれば、その物体が吸収せずに反射した光を、その物体が持っている色なんだと勝手に思い込んでいるだけです。植物の葉が緑色に見えるのは、葉緑体が青色や赤色の成分(波長)をよりよく吸収し、その他の成分を反射するためです。吸収せず捨てている(反射している)成分を、その物体の持っている色だと錯覚しているだけなのです。犬や鳥や昆虫などが見れば人間が見たのとはまったく違うものとなるはずですが、それも解釈の一つにすぎません。赤外線で観察するならば、温度の高低で白色に見えたり黒色に見えたりして、ふつうに目で見た色とはまったく違って見えます。
物質ですら、解釈による存在です。
宇宙物理学では、宇宙には膨大な量の、目に見えない物質やエネルギーがあることがわかってきており、欧州宇宙機関の最近の発表では、ダークマターが26.8%、ダークエネルギーが68.3%、人間が感知できる物質としての原子は4.9%にすぎないとされています。人間に見えているものは、人間が解釈したにすぎないもので、本当の姿(事実)は人間には把握できないようです。
解釈の一つにすぎない思い込みから離れられず、自分で自分の足を引っ張ってしまっている人、自分で自分を狭い範囲に閉じ込め自身をいじめている人は、BENBUで錯覚に気づき、前進のきっかけをつかんでいただきたいです。